小野先生の一期一会地球旅㊻「海外看護事情視察団に添乗して その5」

一期一会 地球旅 46

海外看護事情視察団に添乗して(その5) 忘れられない思い出 ①

Nurse Tourは、1989~2002年まで12回担当したことを述べた(95年と01年は中止されたと思う)が、この視察団に限らずどの旅行でも様々な出来事があり、予定通り平穏無事に終わったということの方がむしろ少ないかもしれない。勿論、悪い話ばかりではなく、うれしい出来事や楽しい思い出もたくさんある。その中から印象深いことをいくつか書いてみたい。

1)グランドキャニオンで嵐に泣かされた!

最初のNurse Tour(89年)は、シカゴ、ニューヨーク、ボストンで集中的に視察を終えられ、折り返して旅の後半、グランドキャニオン周遊という趣向が組み込まれていた。ラスベガスに宿泊して、小型機で日帰りの大峡谷遊覧であった。20数億年という気の遠くなるような地球の歴史を見ることのできるグランドキャニオン観光を終え、空路ラスベガスへ戻り、乗り継いでサンフランシスコに向かうというのがこの日の予定であった。ところが、午後から次第に天候が悪化して小型機の出発は叶わず、随分長く天候回復を待たされたが、依然として離陸は不可能とのこと。遂に、航空会社では、1ラスベガスまでバスを仕立てるのでこれで帰っていただきたいとの仕儀となり、止む無く他のツアー客などとバスに乗り込んだのは当初の出発時間を大きく過ぎていた。風雨の中、真っ暗なカイバブ高原から高速道路を走って400㎞、ラスベガスで仮泊のホテルに着いたのは、真夜中を過ぎていた。翌朝、サンフランシスコへ飛び、半日遅れでの到着となったが、団員は身なりを整えられて当初から予定のカリフォルニア州看護婦協会(報告書記載の通り)を訪問された。前夜は悪天候による予定変更で、睡眠時間もほとんどなかったが、百戦錬磨のナースとしての経験から緊急事態を大きな混乱もなく克服していただけた。報告書に見る写真は前日のハプニングはおよそ感じられない落ち着きぶりである。このときの善後策を採るにあたっては、団長は勿論、海外看護事情視察計画の実務を当初から担当され、この視察団に事務局としても参加された全社連の看護室長吉川益代様始め団員ご一同の冷静な対応と激励に大きく助けられたことを今も感謝している。

この年の「看護事情視察報告」の編集後記にはこの時のことが次のように記述されている。

2★ 第2のハプニングは、研修日程も終盤近く、ハードスケジュールを何とかこなし、唯一リラックスプランであったグランドキャニオン遊覧後起きた。 帰路、突如嵐に見舞われ、ちゃちな8人乗りのセスナ機はグランドキャニオン山頂空港に逆戻りを余儀なくされた。飛行メドは全く立たず山頂の発着場で一同は不安と諦めの中で何時間か過ぎた。しかしこのアクシデントの中でも、仲間のより深い絆と多くの学びを得た。飛行再開交渉はじめ諸連絡に奔走する小野氏(明治航空)、3長期戦に備え全員の兵糧(パン、リンゴ、牛乳)を準備する者、刻々の状況変化を連絡する者・・・・・等見事なチームワークであった。結局、チャーターしたバスで深夜の400キロ踏破による下山とあいなったが、漆黒の闇の中に見えたラスベガスの灯はかつてのフランス映画のワンシーンにも似た深い感動であった。かくして『三団体かるがも一家』のドラマチックな旅はサンフランシスコをもってフィナーレとなった。 (第2のハプニング:第1は後述するサンフランシスコでの地震のこと)

2)ロマ・プリエタ地震(サンフランシスコ地震)

4このグループでは、旅行中にもう一つ大きな出来事があった。10月17日に日本を出発してシカゴに到着、夕食時にテレビのニュースがサンフランシスコ一帯で地震が発生したことを報じており驚いた。すぐに手配会社を通じて、調べてもらったがその段階ではほとんど何もわからなかった。翌日、やっと現地の様子が伝えられてきた。かなりの被害が出てはいるが中心街や空港、交通機関などは復旧してきており、ホテル等もほとんど支障なく、ライフラインも心配なさそうである、との説明であった。そして、これから8日後にサンフランシスコに到着するについては多分問題はないであろうとのことであった。そこで、これからもより確実な情報を逐一伝えてほしいと申し入れ、日本領事館など公的機関からの安全情報も入手することでより確実に入るための条件を整えることとした。このようなことをお客様にその都度お伝えし、視察事業主催者である全社連にお伝えして旅行を継続することの了承を得た。

5米国では時間の経過と共に地震のニュースは少なくなっていったが日本ではどうやらもっと大きく報じられていたらしいことを後で知った。事実、日本からのニュース記者などは震災現場の生々しい様子を想像して臨戦態勢(?)で日本から駆け付けた人も多かったらしい。市内の中心街では、市民が普段とさほど変わらぬ姿で過ごしているのを見て、自分たちの慌てぶりに少々恥ずかしさを覚えたという或る女性キャスターの後日談を思い出す。63人の犠牲者と4千人近い負傷者、自動車専用道路(高速道路)が決壊し、あちらこちらで不通箇所あるなど大きな被害が報じられていた。しかし、被災地域がかなり狭かったことと市の中心部などには大きな被害が無かったことは不幸中の幸いということであったのかもしれない。1906年の大地震から80年余り、その後は、耐震構造が意識されていたこともきっと幸いしたのであろう。 というわけでこの時のNurse Tourはサンフランシスコに着いてからもさほど大きな支障は覚えなかったことは間違いない。この時も、吉川室長始め団員各位の冷静な判断といざというときに備える姿勢に大きく勇気づけられたことを今も思い出す。

「看護事情視察報告」の編集後記にはこの地震のことについて次のように記述されている。

★サンフランシスコ大地震(H1.10.18)については、米国第二夜、微動だにしないシカゴのステーキハウスのTVで知った。現地ではまことにクールな受け止めでTVニュースの中で報道する程度。しかし、日本ではかなり衝撃的なニュースとして伝わり、関係各位にはかなりご心配をかけたと帰国後知った。

この後、1995年には阪神淡路、そして2011年東日本大震災が起き、それ以外にも各地で地震は頻発している。 地震は、多くのアメリカ人に比べると日本人にとっては、はるかに大きな関心事であり、この国に住む以上不可避の致命的な大問題であることを痛感する。

(資料 上から順に)

カリフォルニア州看護婦協会にて(当時の表記) (平成元年度 看護事情視察報告より)

グランドキャニオンにて、・・・・ この後で“苦難の道が始まった” (同上)

かるがも一家の海外視察 (同上 編集後記より)

ロマ・プリエタ地震(マリナ地区での火災 1989年10月17日:現地)(資料借用)

ロマ・プリエタ地震で傷んだ州際高速道路(インターステイト・ハイウェイ:サンフランシスコ市内) (1989年10月17日:現地) (資料借用)

(2015/3/10)

  小野 鎭