小野先生の一期一会地球旅57「南米での思い出」

一期一会 地球旅 57

南米での思い出

以前にも書いたが、南米には70年代に3回行ったことがある。回数が少ないだけにいくつか経験したことを40年過ぎた今も、前後関係は定かではないとしても、かなりよく覚えている。勿論、それらの体験は、日常茶飯に起きていたことかもしれないし、偶々そうであったかもしれないが、多分、当時としては、さほど珍しいことではなかったのでないだろうかと今も思っている。そう思う根拠は、当時の現地の手配会社やガイドなどからも聞かされることが多かったからである。そんな中から特に印象深かったことをいくつか紹介させていただこう。

両替にも裏があった!

海外旅行で面倒なことの一つに両替がある。団体旅行では、多くの場合、現地手配会社(Land Operator)を通じて、宿泊費や通訳代、貸切バス代などを前もって払い込んでおき、Voucher

という予約記録と払込済み証明をかねたクーポンのようなものを持参して各所でそれを切り取って渡す、という仕組みが多かった。 しかしながら、稀には現金(通常は米ドル)を持参して旅行費用を支払うこともあったし、食事代やガイドやドライバーへのチップ、その他諸雑費は現地通貨で支払う必要があった。個人的な費用としては、ショッピングや現地交通費、オプショナルツアーなどもあり、多くの場合、米ドル現金または旅行者小切手を持参して、現地で両替して現地通貨を準備するという方法が一般的であった。勿論、今ならばクレジットカードを利用することが多いが当時はそれほどカードもまだ使われていなかった。団としての現地費用は人数分であるのでかなりの金額になる。両替率の良し悪しは最終的にはその旅行取扱金額の利益率にも影響してくる。当然、より確実で有利な両替の窓口を探すことになる。一般には現地の銀行や空港の両替を利用することが多い。

さて、アルゼンチンのブエノスアイレスは、南米のパリとも呼ばれる美しい大都市、現地の日系人ガイドに相談したところ、多分、大手の銀行であったと思うがそこで交換レートを確認し、建物の裏側に回った。そこには、別の両替所らしきところがありその入り口でいくらかの入場料(?)らしきものを払い、中に入っていった。外国人旅行者やそれなりの格好をした現地人らしい人物も並んでいた。レートは、銀行で見た相場より、かなり良かったと思う。いわゆる闇ドルが横行していたのであろうが、公然の秘密といった世界があったらしい。この時の旅行ではなかったが、チェコスロバキアやハンガリーなど旧東欧諸国で闇ドルの両替に誘われたことがある。しかし、秘密警察が見張っているからやめた方が良いなどと耳打ちされていたので利用したことは無かった。真偽のほどは分からないが、当時、社会主義国家の旅行は少々不気味な思いもあった。

小型機で牧場見学

アルゼンチンは、世界的な畜産王国、食肉の輸出では世界有数であった。食肉流通関係の視察団で訪れたが、この国の牧場や食肉関係企業などを訪問するために視察団を派遣された団体の事務局では在日アルゼンチン大使館を通じて協力を依頼されていた。視察についてはとても協力的な返事をいただいての現地訪問であった。現地では、関係団体を訪問した後、翌日は牧場見学が予定されており、小型機で案内されるとのことであった。

1ブエノスアイレス市は、対岸まで100㎞以上もあろうかという南米第2の大河ラ・プラタの河岸に位置しており、その川岸には広大な公園があり、その中に小型機や国内線が発着する空港があった。そこからセスナなど小型機数機に分かれて小一時間、どこまでも続くパンパの大平原の上を飛び、やがて緑の中に踏み固めたような細長い道らしきものがあり、そこに飛行機は降りて行った。牧場では、ガウチョ(カウボーイ)スタイルの従業員たちが出迎えてくれた。広大な牧場では肉牛が飼われており、たくさんの牛たちが一面の緑の中で草を食んでいた。そして、アルゼンチン名物の焼き肉料理アサードをご馳走になった。肉の大きさもさることながらその厚さも大変なもので何とも豪勢なランチであった。 日本から食肉買い付けのための現地調査だと報じられていたのであろうか、その歓待ぶりは驚くほどであった。

税関で苦労したこと。

発展途上国では、通関(空港などで税関検査を受けること)の際、少なからず賄賂が存在することは聞いていた。しかし、これも渡し方を間違えると却って複雑なことになり、苦労することがある。増して、自分は不慣れというよりは、初めてのことで、それこそ“えらい目”に遭ったことがある。アルゼンチンで、小型機での牧場見学など贅沢な視察を終えたのち、団員各氏はこぞって革製品など高価な土産物を求められた。この後、ブラジルやパラグアイなども回ることになっていたので、入出国にあたっては、これ等の土産品も「身の回り品」として日本に持ち帰ることで税関は通してもらえるだろうと、思っていた。現地の土産物店でも、その点は問題ない、と聞いて皆さんは大盤振る舞いであった。

ブエノスアイレスから空路ブラジルのサンパウロに着いたのは夜10時近かった。旅券に入国のスタンプを受け、スーツケースや革製品などの入ったバッグなどを携えて、税関検査を受けた。ここで、検査官から「身の回り品」について調べられ、制限金額以上であるので税金を払って持ち込むか、ボンド(保税)荷物として空港内に預けておくか、いずれかの方法を採るようにとの説明であった。この時の行程では、サンパウロからは国内線でリオ・デ・ジャネイロへ向かい、さらにイグアスを通ってパラグアイに抜けることになっている。当然、サンパウロには戻って来ないので保税荷物として空港に預けることはできなかった。止む無く、税金を払うとすれば、どうなるのかと聞いたところ、法外な!と思うほどの金額であった。そんな馬鹿な!と団員全員で係官とやり合ったが、すでにかなりの時間が過ぎており、ほとんど他の乗客は通関を終えて税関内には自分たちのグループくらいしか残っていなかった。

そこで、一計を案じて、ドル札(金額は覚えていない)を検査官に握らせ、何とか穏便に収めてもらおうと試みた。これが悪かった。火に油を注ぐような結果になって、却って検査官を怒らせることになってしまった。関税法違反らしきことにもなるとの説明があり、これ以上モメると品物を没収されかねない雰囲気であった。団員各氏は仕方なく成り行きを見守っておられたが、法外なほどの納税には応じられないし、さりとて、このまま税関は通れないし、ということで時間が過ぎて行った。このままでは、時間ばかり過ぎて仕方がないからと、一端荷物を預けて、翌日再交渉することにして、外へ出た。出迎えの現地ガイドとドライバーは待ちくたびれていたが、事態を説明してとにかく町へ向かった。サンパウロのヴィラコポス空港は市街地まで100km、世界一遠い空港と言われていたが深夜バスの車内は重苦しい2時間であった。

翌日、団長と相談して視察は現地ガイドに案内を頼み、自分はもう一度空港に行って荷物の奪回(?)を試みることにした。団員各位から、よろしく頼む、との声を背中にタクシーを飛ばした。そして、税関事務所に行き、再度交渉した。熱意が通じたのか、税関規則を曲げてくれたのか、情にほだされたのか?理由は不明であったが、始末書らしきものに署名し、手数料か罰金かわからないが多分数百ドルを支払って全部の荷物を出してもらえた。毛皮やバッグなどを詰めた10数個の土産物をタクシーに積み込み、また100kmの道を戻った。結局、ヴィラコポス空港からサンパウロ市内まで、コーヒー畑などが広がる赤茶けた大地を昨夜から3回も走ったことになるが、帰りはポルトガル語とスペイン語の単語を並べてタクシーの運ちゃんとあれこれ下手なバカ話をしたことを覚えている。

サンバクラブでぼられた!

サンパウロからリオへ向かった。ここでは、業界視察というよりは、カーニバル見物が目的であった。この時の団員は、大手の食肉店の二代目や流通業の役員諸氏であり、いずれも羽振りが良かった。当時の記録を見ると、旅行代金は、25日間、110万円近くであり、自分の給料は多分10万円弱であったのでほとんど1年分の金額であった。リオは、まだカーニバル開会前であったが、あちこちでサンバのリズムが響いて、町中いたるところで浮かれている感じであった。

2
到着したその夜、サンバのクラブへ行った。ウェイターの説明では、飲物付きで“ほどほどの金額”と聞いていた安心して本場のサンバのリズムにしばし酔いしれ、楽しいひと時を過ごした。そして、勘定を頼んだところ、一人数百ドル(実際は当時の現地通貨であるクルゼイロ)と言われた。考えるまでもなく、旅行者と見てボラれたのであろう、そんな馬鹿な!と大騒ぎになった。当初、聞いていた○○クルゼイロとはあまりにも金額が違う、飲み物も一人2~3杯のビールなどを飲んだだけであり、ホステスなど呼んだわけでもなし、と団員と共に強硬に反論した。一行の中には大学の拳法部で鳴らした猛者も居られ、不思議に恐怖感は覚えなかった。しばらく大声でやり取りし、警察を呼んでほしい!(ポルトガル語は分からなかったので、Para llamar un Policia !)と言ったことは覚えている。ほかにも知っている限りのスペイン語と英語で押し問答した。しばらくして、ボスらしい人物が出てきて、法外とも思える請求が引っ込められて妥当な金額で治まった。そして、もうこんな間違いはしないので、明日もまた来て欲しい、と誘われた。今考えると血気盛んな時代であった。

3そして、あの有名なカーニバルも見物した。大変な熱気と賑わいであった。リオには4泊したが、この時の現地手配会社からは、最低5泊分の宿泊費が必要と言われ、それに応じざるを得なかった。一年で最大のお祭りであり、世界中から見物客が訪れ、旅行業界としても強気一点張りというのは昔も今も変わっていないらしい。

4(資料 上から順に)

アルゼンチンの牧場(パンパ大平原  資料借用)

リオ・デ・ジャネイロのコルコヴァードの丘にあるキリスト像(この後、丘を降りて、サンバのクラブに行った。 1974年2月)

カーニバルのサンバのパレードではその熱気とボリュームに圧倒された!(1974年2月)

リオの後、イグアスの滝にも行った。そのスケールの大きさにただ茫然。(1974年2月)

 (2015/05/26)   小 野  鎭