小野先生の一期一会地球旅63「ゆきわりそうの旅 オーストラリア(1)」

一期一会 地球旅 63

ゆきわりそうの旅 オーストラリア(その1) 

東京・豊島区に「地域福祉研究会ゆきわりそう」という組織がある。この会に初めて伺ったのは1987年の初秋であった。池袋のサンシャインビルにある福祉専門学校の副校長であったT先生の紹介であった。重度の障がい者の方やご家族などのグループをオーストラリアに連れていきたいと仰っているので、訪ねてみては?とのことであった。西武池袋線で池袋から二つ目の東長崎駅から徒歩数分の住宅街の一角に、「ケア付き短期アパート ゆきわりそう」という看板が掛けられた建物があった。ここで、お会いしたのが代表の姥山寛代さんであった。9月上旬、まだ夏の暑さが残っており、リビングルームのような部屋には、肢体不自由や知的障害の若い男女が数名いて、マッサージを受けていたり、掃除をしていたり、歌ったり、楽しさいっぱい、笑い声が溢れていた。姥山さんは、相棒の事務局長山本良夫氏と組んで組織を設立され、その年7月にこの施設を開設されていた。

1地域に在住する重度の障害のある人などの親や家族に何らかの緊急事情があるとか、何かの理由でそのお子さんの世話ができないときに数時間または宿泊あるいは週末を過ごさせる、その間に家族が落ち着いたところで帰宅させるなどの支援をしておられた。ほかにも様々なプログラムやサービスが行われていた。公的な制度としては緊急一時保護であるとか、障害者施設で行われている私的な扱いでの一時的な預かり、あるいはレスパイトケアなどが始まっていたとは思うが、いずれも事前申し込みや様々な規則があり、急ぎの時、あるいはそれなりの理由が無ければうまく機能していないことがあると聞いていた。地域住民の、特に重度の障がいのあるお子さんなどの家族にとっていざというときいつも苦労しておられることが多かったらしい。勿論、単純な理由ではあるまいが、地域福祉研究会ゆきわりそうでは、地域で求められている様々な要望に少しでも多く、可能な限り積極的に応えようとしておられた。姥山さんは、医療ソーシャルワーカーとして地域の病院に勤務しておられた時、患者の家族などからいろいろな相談を受けられたりする中でこのような人が抱える悩みを少しでも多く解決するために研究会を立ち上げられ、そのための受け入れ施設として、ケア付き短期アパートを開設されたのであった。

姥山さんは、福祉関係視察でオーストラリアを訪問されたことや旧国鉄の協力を得て障がい者にも列車の旅を楽しんでいただこうと「ひまわり号」を走らせたメンバーのお一人でもあった。そんな経験からゆきわりそうの利用者やその家族の方々をオーストラリアへお連れして牧場で羊と遊んだり、広大な大地を走る列車の旅を楽しませたいという願いを熱っぽく語られた。筆者は、70年代から障害者施設職員の研修や発達障害関係の研究者などの視察旅行を数多くお世話していたので重度障害のある方の様子などについてはある程度の知識はあった。一方、80年代中期のその頃であっても、障がいのある方自身の旅行はまだ普及しているとは言えなかった。自分自身では、知的障害者グループのハワイ旅行の準備、あるいは国際障害者スポーツ大会(パラリンピックの前身)出場選手、障害者ご自身の研修旅行のお世話などの経験はあったが、旅行環境が整っているとは言えない時代であった。姥山さんからのお申し出をお聞きして、即座に感じたことは、航空会社と現地受け入れ側の協力をどこまで取り付けることができるか、が鍵であろうと思った。そして、かなりむつかしい業務になるであろうと思いながらも何とかして皆さんの思いをできるだけ多く実現しなければと早速準備に取りかかった。

航空会社や現地手配会社に相談したが、どこも経験が少なく営業マンの中には及び腰の人もあった。航空便については、当時では、日本の航空会社の担当者からは、そのような障害者の方は、長時間の飛行に耐えられるのか、機内で体調変化を来たされたり、他のお客様との間にトラブルは起こさないか、車いすのお客様は一定人数しか乗せられない、などたくさんのハードルが提示され、暗にお受けできないという姿勢がうかがわれた。そこで、オーストラリアのQF(カンタス航空)に相談したところ、数日後、日本からはそれほど多くのお客様をお受けしたことはないが、欧州やアメリカ方面、あるいはオーストラリア国内では、車いすのお客様の利用があるので対応できると思う、とのことであった。一方では、現地側の協力を得る必要があると思い何らかの伝手は無いかと手配会社(Land Operator)に相談したところ、ホテルは通常のバス付のツインルームではなく、シャワーだけの部屋をお使いいただくことで対応してほしい、車いすを乗せられるリフト付き貸切バスは問い合わせてみなければわからない、との返事であった。 そしてぜひ担当させてほしいとの希望も寄せられていた。 そこで、何とか行けるであろう、との感触を得てこれを企画者である姥山さんにお伝えした。

とりわけ幸運であったことは、長年お世話させていただいていた海外医療事情視察団をご案内してその年、87年10月末にオーストラリアとニュージーランドを訪れることになっていたことであった。このことは、「地球旅53」でも書いたがメルボルンで病院見学が予定されていた。 この手配については、当地のセント・ジョンズ少年少女の家の施設長であるイアン・G・エリス師の協力を仰いでいた。そこで、現地を訪れた折りにゆきわりそうグループの希望について相談した。師は事務局長のフランク・ビア氏と二人で真剣に話を聞いてくださり、詳しいことは徐々に打ち合わせるとして、基本的なところでは全面的に協力することを約束して下さった。エリス師が施設長を務めておられる児童養護施設では、グループ内のプログラムとして、「インターチェンジ」という仕組みがあった。在宅の重度障害のある子どもを週末里親のところで受け入れ、家族はその間、普段心配りが薄くなりがちな他の兄弟姉妹との触れ合いの時間を増やすとか、家族が息抜きをすることなど、レスパイトケアとしても利用されていた。そのような背景もあって、重度障害者へのサービスについても理解が深かったのであろう。一方、宿泊施設については、エリス師が卒業されたメルボルン大学の学生寮が学生たちの夏休みにあたり、それを使わせていただけそうだとのことであった。ホテルのような快適さは期待できないが広い部屋と芝生でおおわれた中庭などもあり、朝夕食も摂れる、との情報も得た。

2この視察団の添乗から戻り、現地での受け入れについて協力を得られる見通しがついたことを早速報告した。QFとも話を進め、旅行は翌年12月上旬ということに決まった。日本では師走にあたるが、オーストラリアでは真夏、そしてクリスマス前の頃である。参加者募集が始まり、参加希望者の顔ぶれが少しずつ見えてきた。種々の障害のある人やその家族、年齢層も幼児から80歳近い方まで幅広かった。母親が人工透析を受けなければならないという方もあった。

3エリス師には、参加者の様子が見えてきて、その必要性が多岐にわたっていることも逐一伝えて可能な限り、応えていただきたいとお願いした。いわば、Tour Operatorの役割をお願いしたわけで、それも今のようにE-Mailなどはまだなく、航空便のやり取りであった。大きなところでは次のような準備と手配があった。宿舎は、メルボルン大学ニューマン・カレッジ学生寮5泊、当時日本では一般的にはごく少なかったリフト付き貸切バス、人工透析を受けるための医療機関との交渉、4いざという場合の赤十字病院への協力要請、シャワー椅子の借り出し等々。また、オーストラリアで鉄道の旅を楽しむことについては、メルボルンからバララットという古い町まで日帰り旅行が提案された。また、牧場でのバーベキュー、フィッリプ島へ行ってペンギン・パレード見物なども準備してもらった。

航空会社への団体予約では、車いすの使用や歩行障害のあるお客様については、障がいの原因または理由、機内で座位が保てるかどうか、介助者の有無、その他付加的な情報を求められたので、可能な限りこれを準備した。結局、一連の準備を整えて出発するまでにはほとんど1年近くを要した。こうして、車いす使用者18人を含む52人、これにK社員と筆者が添乗して1988年12月6日、ゆきわりそうオーストラリアの旅は出発、尾翼に大きなカンガルーがデザインされたジャンボ機はメルボルンへ向かった。搭乗までの準備、機内、そして現地での様子、忘れられない数々の思い出は次号に回させていただきたい。

(資料 上から順に)

ゆきわりそう ケア付き短期アパート開設日の様子(1987.7.20)

姥山寛代編著「ノーマライゼーションをめざして - 地域福祉研究会ゆきわりそうの

10年」より (中央法規出版発行)

Ian G. Ellis師よりの詳細連絡 (1989年12月 第2回オーストラリアのときの記録)

リフト付き貸切バス(1988年12月)

(2015/07/05)

小 野   鎭