小野先生の一期一会地球旅70「ボンに響け 歓喜の歌 その(3)」

一期一会 地球旅 70

ボンに響け 歓喜の歌 (その3)

1 発起から2年余、様々な準備を経てボンへの出発が次第に近づき、壮行会が開かれることになっていた。ところが、その直前に団員のひとりN青年が急逝されるという予想もしなかったことが起きた。しかもゆきわりそうに宿泊中のことであった。その日、別件で外出していた私は社に電話を入れたところ、この悲劇的な連絡を受けて、目の前が真っ暗になる思いであった。もし、事故であったら? 2週間余りのちに予定されているボンでのコンサートはもちろん旅行もすべてダメになるかもしれない。まさに、青天の霹靂とはこのようなことを言うのかもしれない! 結論から言うと、事故ではなく、重度脳性麻痺であったNさんはもともと呼吸器が弱く、「慢性細気管支炎」が悪化し、20歳8か月の生命の炎が消えたということであった。2壮行会は、彼への追悼の会を兼ねることになったがご両親は彼の遺志と共に出発されることになった。お二人の悲壮な思いはいかばかりであっただろう。

こうして5月10日、ルフトハンザ・ドイツ航空でフランクフルトへ向かった。多くの団員にとっては初めてのヨーロッパであり、広いシベリアの大地の上を飛びながら機内にはこれから訪れるドイツへの期待と好奇心に満ちた笑顔が溢れていた。12時間余りの飛行の後、フランクフルトに降り立ち、空港前のシェラトンホテルに宿泊、翌朝2台の大型リフト付きバスでボンに向かった。3 5月のドイツはことさら美しい。空は青く鮮やかな緑とこの地方独特の木組みの骨格がそのまま浮き出している古い建物の集落が川沿いに続く。やがてアスマンスハウゼンにつきそこから遊覧船に乗った。船上では両岸の景勝地や集落について説明がアナウンスされ、写真を撮ったり、美しい風景に見入っているうちにやがてヴァイオリンで「埴生の宿」が流れ始めた。団員の一人として参加されていた演奏家の並木信厚氏であった。今回、オーケストラの一員として演奏することになっている。N青年を偲んで流れるメロディにみんなはラインの流れに遺品を流したり、手を合わせる姿があった。想い出の記に、団員の一文がある。「父なるラインよ、あなたはたくさんの悲しいこと、辛いことの思い出を呑みこみ、流してくださった。そし て、私たちを祝福し、愛して下さった。その時、陽光の中に私たちは心安らかでした。心から感謝致します」

4ボンに着いた翌日の午前は、バスで市内を巡り、演奏会会場となるボン大学の講堂などがある本館を眺めた後、ベートーヴェンの生家を訪ねた。250年近く前の建物であり、階段しかないのでみんなで介助しながら入館した。楽譜や楽器、そして生活の様子などを今に伝える数々の展示に見入る真剣な姿が印象的であった。午後は、ベートーヴェンホール交響楽団の主要メンバーから成るオーケストラとカルトイザー教会合唱団を交えての初の合同練習。指揮者トノ・ヴィッシンクとの顔合わせでもあった。

ドイツ側の団員も私たちがいつも使っているのと同じ赤い表紙の練習本を開いていた。5昨年、下準備に訪れた後も別の仕事で幾度かドイツを訪れたが、その時に持参して送ったものであった。楽譜が世界共通であろうことは理解しているが、日本とドイツでそれぞれ別々に練習していた人たちが指揮者の下に発声し、一つになって歌うと音楽が世界を結ぶのだということを改めて認識した。楽譜というものに深い感銘を受けたことを思い出す。オーケストラの中には、重度の障がいのあるメンバーと第五パートという聞き慣れないグループが含まれている合唱団に最初は若干奇異な思いを抱いた人もあったように思えた。しかし、団員の力強い歌声とこのコンサートに寄せる想いの大きさを実際に感じて、次第に彼らが一層真剣に演奏している様子がうかがえて嬉しかった。

6翌日夕方には、いよいよボン大学講堂でのゲネプロ(本番前の全体練習)が行われた。大学本館は3階建ての大きな建物、多分100年以上前に建てられたのではないだろうか、いかにもドイツを思わせるがっしりしたつくりで天井ははるかに高く、広い階段がある。講堂は2階にあり、800人くらいは入れるのではないだろうか、ステージはかなり広かった。 残念ながらエレベーターは後付けであろうか業務用の小さなものであって、車いすと介助者が一組程度しか乗れなかったような気がする。団員の多くは数人ずつ支援しながら階段を上下した。25人の車いす使用者がおられたので、2階への移動は必ずしも楽な行動ではなかったが、長い間の思いが叶って今その舞台が目の前にあると思うとだれもが心弾む思いであった。

7そして、5月14日の本番、晴れやかな気持ちでステージに上がった。第三楽章までのオーケストラの演奏が終わり、いよいよ第四楽章。この日を目指して練習に励んできた一行は、地元の合唱団と共に「歓喜の歌」An die Freudeを力いっぱい歌った。N青年の遺影は当初から合唱指導をしてくれた声楽家の瀬尾美智子氏に抱かれて共にステージに立った。自分はと言えば、これまでの様々な思いが走馬灯のように脳裏を巡って幾度も胸が熱くなり、こみあげてくるものがあった。そこには、Alle Menschen werden Brüder“すべての人々は兄弟になる”があったことを確信する。

会場を埋めた満員の聴衆、その一番前にはトム・ムッタース博士の姿があった。彼の存在なくしてこの演奏会は考えられなかった。感謝以外の何物でもない。そしてレーベンスヒルフェの会員や関係者もたくさん見られた。団員の家族もあれば、在ボン日本大使館関係者やこの地域に在住する日本人もおられた。8団員は合唱団創立以来のメンバーもあれば、今回新たに加わった人々もあったがこれまで練習してきた成果、そして第九に寄せる想いをこの一瞬に込めて歌い上げた。思い出の記に、姥山代表のことばがある。「1993年5月14日、ボン大学講堂に於ける私たちは心で歌う目で歌う合唱団の響け歓喜の歌コンサートは一大成功裡に終わった。この時私は、同情や哀れみやお恵みの拍手ではないことについて、あらためてこの合唱団の第九に確信を持ったのであった」

(資料 上から順に)

* ボンに響け歓喜の歌、そして憧れのスイスへ(携行旅程)

* 2台のリフト付き大型バスでフランクフルトからボンへ

* ライン川遊覧船上での祈り

* ベートーヴェンハウスにて

* 初の合同練習「指揮者トノ・ヴィッシンク氏。ベートーヴェンホール・オーケストラ、カルトイザー教会合唱団と初顔合わせ、全身に緊張が入る。5年の成果はどのように受け止められるだろうか、新田先生の発声から始まった。力いっぱい歌った。全身が汗でぬれた。目がうるんだ。トノ氏は、「よく練習を積んだ合唱団です」とあいさつ。身体中の力がぬけて涙が出た。うれしかった」ある団員の一文がある

* N青年の遺影は、瀬尾美智子氏に抱かれて舞台に立った。

* 響け歓喜の歌 コンサート ボン大学講堂にて

* 会場は総立ちになり、いつまでも拍手が鳴りやまなかった。会場に来る途中、老夫人が道に膝まづき、私たちのために祈ってくださった姿があった。

(2015/08/25)

 小 野  鎭