一期一会地球旅81「21世紀の平和を願って その4」

一期一会 地球旅 81

21世紀の平和を願って その4

ニューヨークでの現地設営の目処がついてきたことで合唱練習にも今まで以上に熱が加わっていったし、講師各位も指導には一層力を入れてこられた
と思う。コンサート本番では、指導陣の一人である鹿内芳仁氏がテノールのソリストとして舞台に立っていただくことになっていた。当時、ヴォイストレーナーとして指導してくださっていた人の中には、今はオペラ界で活躍している人もある。団員は、6~70人で小野先生1あったが通常の練習に来る人は40人前後であった。しかし、ニューヨーク、それも世界の檜舞台であるカーネギーホールに立つとあって、参加したいと申し出てくる人が多かった。この合唱団の理念や活動について知っていただくことは当然であるが、今回のコンサートの開催目的である「障害を持つ人も持たない人も、国籍、人種、皮膚の色、宗教など問わず、平和を希求する人々が集って第九交響曲『歓喜の歌』を共に歌い、世界平和と人々の連帯を訴える21世紀へのメッセージを送るため」を理解し、共感していただくことが条件であった。一、二度練習を見学し、その上で入団していただくこととしていた。中には、重度の障がいということについては理解していただいていない人もあったが練習毎に次第に打ち解けていく人もあった。こうして、東京・関東地区では100名を超える人たちが集うようになっていたし、数年前から交流が始まった京都からもかなりの人たちが参加するということで練習を重ねていた。さらに関西地区からは手話隊というグループがあり、手話で歓喜の歌を演じており、彼らからも参加したいと希望が寄せられていた。このことはすでに現地調査した時、高原氏には伝えてあった。ほかにも、新潟や青森などからの参加希望者があり、いまや第五パートを含めた「歓喜の歌」は全国的に知られて歌われるようになっていた。多くの障がい者の人たちが参加できるようになりその幅が広がっており、いわば合唱のユニバーサルデザイン化が進んでいたといっても良いかもしれない。

全体の合唱団の人数が増えると共に、幅が広がり、応援参加者を交えて、ニューヨークへ出かけようとする人は合計250名前後が予想された。ところで、人数は増える一方ではあったが、資金面では大きな課題があった。日本からの合唱参加者はもとより応援者も旅行代金のほかにコンサート開催のための費用を一定額負担いただくことになっていたが、あまり大きな金額を求めるわけにもいかない。ボンやニュージーランドなどの時と違って、不況が長引いていて財団等からの助成を仰ぐことは容易ではなかった。そんな中で東京国際交流財団、たばこ産業弘済会、NTTドコモなどからの支援をいただけることになってはいたが、それでも今回はまだまだ不十分であった。そこで、「缶募金」を募ることになった。缶コーヒー程の缶を準備して、これ小野先生2にコンサート開催の趣旨と「21世紀の平和のために」というシールを貼って団員はもとより家族や友人、学校や職場など様々なところで協力を呼び掛けてご芳志をお願いした。缶募金を始めて数か月、いくつも缶を持参してはさらに幅広く活動をする人たちもあった。こうして、年が明けて間もなく、練習を終えた後、寄せ集められた缶が開かれた。軽い缶もあればズシリと重いものもあり、テーブルの上には1円玉から500円までのコインが溢れた。 中には、お札も入っており、千円札はもとより1万円札を入れてくださった方もあった。 これを金種ごとに集めて袋に詰める作業が行われた。そして、第五パートのメンバーなどと数キロずつの袋を携えて駅前の銀行まで運んだ。この後も、旅行出発まで数回の開缶が行われ、この募金活動による皆様のご芳志は大きな助けとなったし、一方では国連の社会政策開発部を通じて発展途上国の障害者福祉に役立てていただくべく寄付をした。それから15年余りが過ぎた今、その時の缶が自室の机の上にペン立てとして今も当時を思い出させている。

この頃には、参加者の全貌がほぼ見えてきていた。カーネギーホール利用条件の一つとして小野先生31か月以上前には出演者の名前や団構成を伝えることとなっていた。Stage Billと呼ばれるプログラムを印刷するためである。東京及び関東地区から111人、関西他から51人、そして現地では、NYフェスティバル・シンガースなど252人、総勢414人が出演することになっていた。ほかに家族や応援など100余名があり、日本からは約260人が2便に分かれて訪紐することになっていた。400人を超える合唱団、オーケストラ70余名の出演という規模であった。舞台上には、山台(やまだい)を作って合唱団が立つとしても120名余が限度であり、残りは客席2~3階部分のTier(ティア)と呼ばれる席に入っていただき、第三楽章まではオーケストラの演奏を鑑賞し、第四楽章の合唱部分で舞台の合唱団と共に会場中で歌うこととしてもらった。舞台に立つことは誰もが願うことであるが物理的には不可能であり、多くの団員に我慢してもらわざるを得なかった。不満を覚える人も多かったと思うが、聴衆は舞台からだけでなく、頭上からも降り注いでくる歌声に深い感動を覚えたとのことで、この大合唱は予想していたよりもずっと好評であった。

ニューヨークとのやり取りは、もっぱらメールと電話であったが、いよいよ最終段階になって、高原氏から手話隊が舞台上で演ずるには消防法の安全基準を満たさないためそこで演じることは許されない、と連絡があった。まさに、青天の霹靂ともういうべき事態であり、受け入れるわけにはいかない! 察するところ、舞台の上手(客席から見て右側)ソデの部分で手話隊が演じると指揮者にとっては気が散ってしまうとか、オーケストラのメンバーには目障りになるのかもしれない。とはいえそのことは当初からわかっていることであり、高原氏はそれを承知で契約していたはずである。最初から手話隊と和太鼓がこの演奏会に加わることについてはあまり歓迎しておられなかったことは感じていた。しかしながら、我々の切なる願いと、氏の演奏の幅を広げる意味からも多分、受け入れることとしておられたのだろうと思う。とは言いながら、合唱団の規模が当初よりずっと大きくなったことから、舞台上の空間が圧迫されることになり、期待通りの演奏をするには無理があると判断されたのかもしれない。事情は見当がつくが、さりとて今更それを唯々諾々と聞くわけにはいかない。何とか、別の場所を作るなど何らかの工夫をしてでも手話隊の出番を作らなければ、このメンバーとの約束を違えることになりこれは絶対に許されない。姥山代表から、とりあえず窮状については、グループの代表のMさんに伝えていただいたが、電話の向こうでは絶句状態であったとのこと。何か別の方法、たとえば、国連本部などどこか別の場所で演奏の場を作ることについて再交渉するために、至急現地へ飛ぶことになった。ニューヨークでのコンサートの準備が始まって3年余、2度の現地訪問のほか、それ以外にも別件で数回訪れていたし、様々な機会をとらえては土台作りをしてきたが、今回はそのためだけに3回目の、しかも単独での訪紐であった。何としてもこの難問を解決しなければならない、と悲壮な決意であった。

結論から言えば、国連本部の中にあるダグ・ハマーショルド講堂でコンサート前日の5月30日に「真昼のコンサート UN 小野先生4Mid-Day Concert」を行うことになった。手話隊がステージで演じ、合唱団は、国連職員合唱団と共に客席の左右に立ち、ピアノ演奏で「歓喜の歌」を歌い、国連側はさらに懇親を促進するためにもいくつかのレパートリーから歌ってもらうという趣向である。さらに、この場で、日本から携えてきた国連への寄付金の贈呈式を行うことになった。このような機会を創出することに至った陰には、それまでの国連とのやり取り、東京都やニューヨーク市姉妹都市プログラムのバックアップなど幅広い支援があり、我々のコンサート開催の目的、「21世紀の平和のために」という願いが通じたからであろう。合唱団にしてみれば、国連本部という晴れの場で歌えることの栄誉を得るだけでなく、カーネギーホールと合わせて華々しい機会を得ることになった。手話隊のメンバーには、不本意ではあったかとは思うが、国連という場で思い切り演じていただけたと思う。まさに禍福の転であったかもしれない。

こうして、いよいよ出発のための最終準備段階に入り、目の回るような多忙さが続き、時に徹夜状態もあった。直接的な旅行業務は、今回は別の会社に依頼していたが、ほとんどのおぜん立ては結局自分が行うことになっていたので、よその旅行会社が受け持っているのだという印象は今も無かったような気がする。2000年5月28日、「今、私たち平和のために歌う第九コンサート」一行234名は前後2便に分かれてニューヨークへ小野先生5向かった。

余談であるが、3月に単独訪紐の折り、往路の機内で「Music of the Heart」という映画を見た。ハーレム地区で音楽教師として学童たちに音楽を通じて人間として大きく成長させ、やがてカーネギーホールで演奏し大成功を収め、自分自身も生きる力を養っていった、という実話に基づいたストーリーである。主人公ロベルタ・グァスパリを名優メリル・ストリープが好演していてとても感動を覚えた。そこで、ニューヨーク滞在中に電話帳を開いてみると、今は「Opus 118」という音楽学校を主宰しているということを知った。早速、電話をかけて見たところ、幸運にも当人と話すことができた
。我々のコンサートの計画について興味を持ち、激励してくれた。演奏会が迫り、グァスパリ女史に招待券を送った。果たして実際に来ていただけたかどうかは定かではない
が、あの頃、とにかく自分は行動的であり、張り切っていたことが懐かしい。

(資料 上から順に)
合唱団 練習風景 指導は鹿内芳仁氏(2000年2月)
缶募金の缶(今は、自室でペン立てとして使っている)
Stagebill (May 2000 表紙)
国連本部 ハマーショルド講堂(資料借用)
Music of the Heart (資料借用)

(2015/11/10)

小 野  鎭