一期一会地球旅84「アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 1」

一期一会 地球旅 84

アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 1

2001年9月11日、米国で起きた同時多発テロは15年以上過ぎた今も、その複雑な呼び方をせずに9/11(ナイン・イレブン または September 11)と称することで意味が通じるほど大きな出来事であった。 その後も世界各地で凶悪なテロ事件が起きて多くの人命が失われ、恐怖と憎しみの思いを地球上にまき散らしている。 新しいミレニアム(千年紀)は、そんな不幸な事件での幕開けであったが、私たちの合唱団は国内外での演奏会などを開催しながら、今度はお隣の国、韓国でコンサートを開いて障がい者や市民とのふれあいなど草の根交流ができるといいね、などの声が出ていた。

この年、春ごろであっただろうか、Tさんという女性の存在を知った。合唱団の講師の一人、安部啓子氏の紹介であった。T女史は、日本で学んだあと、韓国の漢陽大学に留学経験があり、日韓の音楽関係、特に声楽部門などに明るく彼の地での知遇も多かった。その一人に、禹光赫(ウ・カンヒュク=Prof. Woo)氏があった。1国立の韓国芸術総合学校(Korea National University of Arts 通称 K’Arts http://eng.karts.ac.kr:8090/)の教授であり、ソウル大学を出た後、フランスはソルボンヌに留学して博士号を得たという素晴らしいキャリアの持ち主である。T女史から、私たち合唱団の願いを伝えてもらったところ、大いに興味があり、協力できそうであるとの感触が伝わってきていた。ほかにもいくつかの可能性があり、本格的に話を進めようとしていたところ、9/11が起きた。そして、祈りのコンサートまでの空白期間が生じたが、韓国への現地調査を行うことになり、その年、11月13日にソウルへ向かった。

漢江の奇跡と呼ばれる経済発展を遂げた韓国では、重工業に続いて情報産業に力を入れて、IT先進国と呼ばれるようになっていた。2000年代になるとそのような技術も活かしながら芸術・芸能面での海外進出にも力を入れていた。その一環としてK’Artsも大きな役割を果たしていたのであろう。その本部は、ソウル特別市瑞草区(ソチョグ)にあり、隣接して国立国楽院や芸術の殿堂(コンサートホール)などもある。舞踊のほかに映画、2演劇、音楽、伝統音楽などの学科があり、この学校で学び、やがて韓流ドラマなどに出演し、日本でもファンの多い俳優やタレントになった芸能人も多い。舞踊学科の教授であるが、Prof. Wooの研究室には新旧様々の金管、木管、弦、打など足の踏み場もないほどの楽器があり、その大多数を演奏するという多芸な人物でもあった。一方では、親しい仲間とバンドを組んで各地の障害者施設などに出向いてはボランティアでミニコンサートを開いているとのことであった。

彼は、私たちが考えているコンサートについて大いに興味を持っており、そのためには、もう一人の人物の存在が必要であるとして、李銀景(イ・ウンギョン)女史に参加してもらうことで話が進むことになった。イ女史は元、軍の高官の夫人であり、愛の声インターネット放送 (www.voc.or.kr 注 今は無くなっている)の専務理事でもあり、障害者のインターネット通信で様々な情報発信や3交流と福祉など多方面に幅広く活動している人であった。さすがはIT先進国とわれる韓国にあって先見性のあるサービスであったと思う。そして、ピアノのイ・ヒア嬢のために全国各地で演奏の場を作り、彼女を大きく成長させるためにも支援していた。イ女史は、政界や財界にもつながりがあったのだろうと思われ、演奏会を開催するにあたって彼女の支援が大きかった。

Prof. Wooとイ女史を交えて協議の結果、韓国で活躍する障がいのある演奏家や声楽家、障がい者グループや地域の合唱団などによる演
奏と合唱を主としたコンサートを開くことへの案が固まっていった。そして、コンサートの開催目的は、折しも2002年に行われるFIFAサッカーのワールドカップが日韓両国で開催されることもあり、それを機にさらに両国の民間交流が盛んになるように願うということで次のような長い名前になった。「アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会」がそれである。 その後、このコンサートは、日韓国民交流年記念事業、そして豊島区制施行70周年事業の一つとしても位置付けられることになった。

しかし、私たちには大きな疑問があった。イベント開催の時期として2002年4月下旬が予定されており、それまでの短期間に果たして韓国側では合唱団の編成と練習、会場、広報、そのための資金集めなど果たして達成できるのであろうか? 不安というよりは、むしろ不思議にさえ思えたがProf. Woo とイ女史の2人に4は秘策があったのであろう。そういえば、オーケストラは、江南交響楽団(?)との話が進んでいたらしい。二人とは専ら英語でのやり取りであったが、
現地調査中、よく聞いた言葉の一つに「ケンチャナヨ」があった。「It’s no problem! 問題ありません!」、という意味合いであろうか。何事も気の早い、短期間でやり上げることの得意な韓国人気質であり、そして陽のタイプの二人は様々な形で積極的に動いて準備を進め、各方面に働きかけられていたようである。3泊4日の現地調査は誠に慌ただしく、早朝から夜遅くまで音楽関係者やプロモーション関係の会社などとの面談、会場候補のホールなどの見学、さらには日系企業を訪ねて協力要請など精力的に動き回った。

現地調査から戻って間もなく、演奏会は、2002年4月20日と24日と決まった。会場の一つは、水原(スウォン)の京畿道文
化芸術会館、もう一か所は、ソウルの芸術の殿堂であった。 京畿道は、ソウル首都圏とインチョン(仁川)特別市を囲む大きな地域であり、水原はその道都、ソウルからは1時間くらいの地であった。二回の演奏会が行われることになったのは、韓国側の様々な理由があったのであろう。そして、コンサートは一部と二部構成として、前半が主として障がいのある演奏家や声楽家のソロや少人数での演奏、ゆきわりそう和太鼓と大正琴のグループもここで晴れの姿を見せることになった。後半の第九交響曲は、第三楽章からの演奏となり、韓国側でも障害者グループや市民合唱団、声楽科の学生などからなり「歓喜の歌」を私たちと共演することで練習が進んでいるとのことであった。第五パートを含めた私たち合唱団の練習楽譜は独自のものであったが、これを事前調査時に持参して韓国側に提供した。合唱は、ドイツ語で歌うが、彼らの楽譜にはハングルでの発音が書きこまれた複製版が準備されてこれを手にしながらの本番となった。さらに指揮者は、水原(4月20日)は、日本側として佐藤寿一氏に務めていただき、ソウルは、韓国側オーケストラのスウ・ヒュンスク氏となった。

ところで、演奏会が前後二回となり、その間に中3日あることから旅程には何らかの工夫が必要であり、そのための調整もかねて3月中旬に単身ソウルを訪ねることになった。ボンやニューヨークの時もそうであったが、海外での大型演奏会では開催に至るまで様々な準備や調整のため、どうしても現地を訪れて細かい詰めをしなければならないことが多かった。韓国での演奏会と旅行参加希望者はサポーターを含めて約120名あり、旅行会社としてはバリアフリー旅行の取り扱いを得意とするベルテンポトラベル&コンサルタンツにお願いしてあった。しかしながら旅行準備のためのコース設定や宿泊は合唱団が所属しているNPOゆきわりそうとして筆者が担当して手配を進めていた。そのため、最後まで予断は許されなかったし、団としての希望を100%叶えることが必要であった。3日間の過ごし方として、面白い案も組み込まれておりそのための具体的な準備もしなければならなかった。イ女史の提案はソウルから鉄道で2時間ほどの江原道(カンウォンドウ)春川(チュンチョン)への1泊2日の旅であった。前述したように、韓国では、韓流(はんりゅう)の映画やテレビドラマ、K-POPと呼ばれる音楽等を輸出することもこの国の大きな産業の一つになっていた。ソウル市内はもとより、周辺にもテレビドラマでロケ地として知られた景勝地があり、新たな観光地として紹介されるようになっていた。江原道各地は、ソウルから近いこともあり、景勝地も多いので人気ドラマの舞台として取り上げられることも多く、春川一帯もその一つであった。後でわかったが、やがてこの地域は一大ブームとなり、日本からのファンが押し掛けた場所でもあった。以下は、次号で紹介、ということにしたい。

(資料 上から順に 写真はいずれも2001年11月当時 筆者撮影)
韓国芸術総合学校 禹光赫教授 (K’Arts Prof. Woo Kwang-hyuk)
障がい者施設でのミニコンサート
ソウル郊外の特別学校にて 前列右から、李銀景さん、イ・ヒア嬢、姥山寛代氏(合唱団代表)
ソウル市内の情報処理会社(社員の大多数は身体障害者)

 

(2015/12/01)
小 野  鎭