一期一会 地球旅 186 台湾の旅 (1)

先頃、台湾へ行ってきた。記録をたどってみると32年振りであった。東京からはわずか4時間足らず、親日的なところであり、日本とは正式な外交関係は途絶えているが経済的あるいは文化的にも様々なつながりがあり、現業時代も多くの取扱実績はあった。しかし、添乗の機会は7~8回であり、それほど多くは無かった。自分自身、ごく幼少の頃1年余り住んでいたことがあることも親からは聞いていたし、写真も見たことがある。素っ裸でお餅の上に立っている写真もあれば、金太郎さんの腹掛けをつけて座っているものもあった。父が海軍軍人として赴任していたので家族ともども基隆(キールン)や新竹(シンチュウ)に住んでいたとのこと。三つ違いの姉はその時に生まれている。そんなこともあってもっとも親しみのあるところ(国)の一つと言ってよい。とは言え、視察や研修旅行

 

のお手伝いが殆どであった現業時代、自分はもっぱら欧米豪などへの添乗が主であった。60年代後半から90年代にかけての高度経済成長を続けていた頃、日本が多くを学んでいたいわゆる先進国への旅行団のお世話が圧倒的に多かった。気障な言い方に聞こえるかもしれないが近場の視察旅行や観光主体の短期旅行は若手の社員やそれほど多くの経験や技術が無くても卒なく業務を終える社員が多かった。現地では豊富な経験と達者な日本語で面倒見のいいガイドや手配会社が補ってくれていた。

長じて台湾を訪れたのは1966年1月、初めての添乗業務であり、かつ、初めての海外旅行でもあった。所属していた東京本社の業務ではなく、大阪営業所の団体の応援業務であった

。64年4月に念願かなって旅行会社(藤田航空サービス株式会社)に入社したが配属されたのは航空運賃の計算や発券業務担当部署。当時は、今のようにコンピュータの端末機で予約を行い、航空運賃が示され、E-Ticket(航空便予約記録)が発行されるという夢のような流れではなく、すべてがいわばアナログ。電話での予約、分厚いタリフを開いて距離計算に基づく運賃計算、それに基づいて手書きで航空券の発行という作業であった。この会社の大阪営業所は個人客よりも団体取扱いの割合が多く社員が添乗に出かけることが多かった。航空券発行担当者は、それでも添乗することを控えるようにしてはいたらしいがどうしてもその社員も出かけざるを得ないことが時々あった。そんな理由から、入社して翌年、1週間ほど、ピンチヒッターとして大阪の発券業務係の助っ人として出張を命じられた。その時の覚えが良かったのか、それから間もなく、今度は切符ではなく、大阪での添乗業務の人数が足りないので応援して欲しい、との要請があったとのこと。そして、その応援として自分が命じられた。どうやら、大阪の所長から小野を出してもらえないかとの特命の要望があったらしい。

 

この時は、京都と大阪の呉服商関係団体の香港台湾視察団、一行70数名、これに大阪の社員と自分を加えた3名の添乗であった。大阪からキャセイ航空で発ち、途中、台北に寄港して香港へ。買い物天国、東洋の真珠とか百万ドルの夜景など、様々な呼び名があったが初めての海外旅行と添乗業務、夢にまで見た外国、それが香港であった。ここで4泊、滞在中、マカオへの日帰り旅行もあった。そして、香港から台北へ、一泊は山のふもとの温泉地北投温泉、そして、烏来(うーらい)観光が含まれてその夜、台北に一泊して6泊7日の香港台湾視察団の添乗を終え、大阪に一泊して帰京した。添乗業務とは言いながら自身が初めての海外旅行であり、見るもの聞くものすべてが初めてであった。それまでは先輩の話を聞いたり、写真や航空会社から入手した現地案内の資料などを見て自分なりに勉強して本番に臨んだが、現地でそれらの風景を目の前にしたときの感動と興奮は今も忘れない。写真や資料で見ていた現地の風景はある程度想像できても、賑やかな音と町の匂いはその場所に行かなければやはり味わえない。今から51年前のことであった。

 

今と比べると何ともゆったりした日程であった。今日ではモノデス(モノ・デスティネーション=目的地は1ヵ所)が多く、それも3~4泊程度のさっぱりしたかたちが多いが、当時は初めての海外視察というお客様が多く、この機会にできるだけ多く廻ろう、という希望が多かったので勢い周遊型が多かった。この時の団体は、前述したように呉服関係の老舗の皆さんであり、旅行先各地での視察や関係者との会合では羽織袴に威儀を正し、女性方も和服はかなり高価なものを召されていたと思う。団長は白の羽織に大きな日の丸の扇を構えてのポーズ、威容に満ち得意満面であった。この翌年、香港往復、さらにその年、つまり入社して3年目の1967年11月から12月にかけて25日間の欧州添乗、初めてのヨーロッパであった。いずれも大阪の仕事であった。翌年6月に初めて東京本社での添乗、美容学校の校長や美容院の経営者など10名をご案内して22日間、パリやローマで有名美容院や化粧品会社などを訪問する視察旅行、添乗員として一本立ちであった。しかしその年の9月末でこの会社を退職、10月から明治航空サービスに移り、夢中で30数年を過ごすことになった。

 

台湾についての思い出を書くべきところ、駆け出しのころの添乗経験を長々と語ってきたが、台湾そのものはもちろんその後、前述したように数回訪れている。しかしながら、欧米ほどは縁が無く、最後に訪れたのは1985年1月、アジア精神薄弱会議(当時の表現)に出席された専門家グループ20数名で一週間の滞在であった。この会議は隔年ごとにアジア各地で開催されており、77年にインドのバンガロール、その次はクアラルンプール、シンガポールなどへと続いていた。70年代中頃からほとんど30年近く知的障害関係の研究者や教育関係、施設職員や行政、家族など関連団体ほとんどすべてを年中ご案内していた。従って、リピーターが多く、毎回苦労はしたが分科会や施設訪問では通訳業務も担当していた。そんなわけで皆様には大変親しくお付き合いさせていただき、その後の自分の人生にも大きく影響していったとおもう。

 

前置きが長くなったが、このころの台湾への旅行については次回改めて説明させていただきたい。

(以下、次号へとさせていただきます)

(資料、上から順に)

1)初めての旅券(1966年11月5日発行)

2)訪問国は指定されている。一回旅券では訪問が認められた国や地域が指定されていた。

このときは、中華民国(Republic of China)、香港、マカオと書かれている。

3)マカオにて、聖ポール大聖堂前にて(ファサードのみが建っている)。この時は、日帰り旅行のため男性陣はほとんど背広姿、女性は着物姿が多かった。筆者は、最後列右の方。聖ポール大聖堂は、「マカオの歴史地区」の一部として2005年に世界文化遺産となっている。

4)国際会議参加旅行のときは、添乗業務のほか、分科会や施設見学では通訳業務も担当することが多かった。

 

(2017/12/15)

小 野  鎭