小野先生の一期一会地球旅①【旅行業従事50年を経て感じること】

 

旅行業従事50年を経て感じること

小 野  鎭

 

今年の4月1日で旅行業従事50周年を迎えた。 紆余曲折のときを過ごしてきたが、ここで懐かしい日々のいくつかを思い出してみたい。

 

期待に胸ふくらませて藤田航空サービス株式会社に入社したのは、1964年(昭和39年)。この年は、我が国旅行業・観光業に於いてはまさに画期的な年であったと思う。同じ4月1日に海外旅行が自由化されており、外貨購入枠が500ドルと制限されてはいるものの、希望者は海外へ観光旅行に行くことができるようになった。それまでは、国費などによる留学や業務出張、国際会議など公的な裏付けがなければ海外へは行けなかった。この年10月に東京オリンピックが開催され、これへ向けて東海道新幹線の営業開始、羽田空港から都心までの首都高の開通など、終戦から19年経た我が国は高度経済成長が始まっていた。右肩上がり、という言葉がよく使われ、日本中が躍動感に溢れていた。

 

子供のころから鉄道大好き、暇さえあれば地図を眺め、大きくなったら旅行会社に入り、日本中そして世界中を回りたい、という素朴な願いを抱き続けていた。大学では、地理学を専攻して卒論では「最近の訪日外国人観光客の動向について」を述べた。当時、旅行業は、インバウンド(訪日客の受け入れ)が花形で、特に米国からの観光客の受け入れが多く、「外人旅行部」で働くことが夢であった。しかしながら、英会話能力はお粗末で、残念ながらそれはかなわず、「業務部予約課」に配属された。国際線航空便の予約や航空運賃の計算と航空券の発券、当時はすべてタリフ片手にすべてが手計算、そして手書きであった。結果としてこれは大変幸運で、世界中の地名や都市間の距離、様々なルールを覚えるのに役立った。1964年の海外旅行者数は、諸説あるが、法務省の統計では、127,749人とある。航空運賃は、というと香港まで往復106,350円(エコノミークラス)、西海岸まで281,900円、欧州まで463,500円、これに対して代理店へのコミッション(手数料)は7%、香港は7,444円、西海岸19,733円、欧州32,445円であった。私の初任給は、15,500円。つまり、西海岸まで一人売ると、新入社員が一人、欧州だと2人雇える、そんな時代であったようだ。今と比べると隔世の感がある。

 

私の手元にこの50年間の添乗記録と航空機の利用内容を記したノートがある。このノートと今日まで233回の海外添乗の旅程表の綴りは私にとっては何物にも代え難い宝物である。

初めての添乗は、1966年1月 香港と台湾への1週間であった。それにも増して、印象深いのは67年11月8日から12月2日まで25日間の欧州であった。北回りアンカレッジ経由で降り立ったのはまさに霧のロンドンであった。長年の煤煙と濃霧で何とも薄暗い町の風景は今もまざまざと覚えている。145名のお客様が3台の貸切バスに分乗、ドーヴァー海峡を渡って欧州大陸を南下していった。添乗員は自分を含む4名、うち一人は経験豊富な先輩であり、毎日、順に指導を兼ねて応援に同乗してくれた。ベルギーのオステンドに上陸し、ブリュッセル、ケルン、ハイデルベルク、チューリヒ、アルプス越えをしてミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、もう一度ローマ、ピサ、ジェノア、ニース、マルセーユ、リヨンと回ってパリへ。ホテルには、「Ato Hitoiki, Ganbare!」と会社からTelexが届いていた。当時、勿論E-メールなどはなく、通常のやり取りは航空郵便か急ぎの場合は国際電話、航空便やホテルの予約などのビジネスはTelexが使われていた。初冬のパリ、マロニエの並木道に焼き栗のにおいが漂っていた。コンコルド広場からシャンゼリゼ大通り、はるか遠くに凱旋門が見えていた。夢にまでみた風景が現実に目の前にあり、夢中で見入り、お客様の記念写真のシャッター幾度も押したことが懐かしく思い出される。

1964年から~50年の歩み 004
1964年から~50年の歩み 001
1964年から~50年の歩み 002

この旅では、5500㎞を走り、それぞれのバスには英独仏伊など数か国語を話すスイス人のThrough Guideが同乗して、道中ずっといろいろなことを説明してくれた。英語でのやり取りに最初は苦労したが数日すると面白いほどよくわかるようになり、陸路で移動することの楽しさは格別であった。各地では半日または全日の市内観光があった。当時は、日本語ガイドは少なく、わずかに最初のロンドンで現地在住の学生が案内してくれたが、それ以外は現地人ガイドが英語で案内。これを添乗員が通訳しなければならない。スルーガイドとのやり取りはできるようになっていたとはいえ、毎回替わる現地ガイドの英語は容易には聞き取れず、まして歴史や文化、風習などはとても理解できない。毎回目を白黒させ、脇の下から冷や汗を流し、夢中で何とか食いついていったことが今も苦く思い出される。そんなわけで、夕食が終わり、添乗員同士のその日の反省会と明日への準備が終わると毎夜、明日の市内観光に備えてタクシーで名所旧跡を下見して回った。添乗日当はほとんどタクシー代に消えていた。ホテルに戻り、ベッドに潜り込むのは毎夜日付が変わっていた。睡眠不足と緊張の日々、パリに着いた時、ベルトの穴がいくつか内側へ変わっていたことも思い出す。幸い翌日、市内観光ではある程度自信をもって案内できたし、こちらから行った方が近道では?などとガイドに言うと、ヨーロッパは初めてではないでしょう? といわれてちょっと得意になったことも懐かしい。 その後、明治航空サービス株式会社に移り、欧米だけでなく世界中を回るようになってからも新しいところはもちろん、以前に訪れたところであっても久しぶりに訪ねるときは極力前夜下見することを心がけている。

その後、パリは世界中どの町よりも多く訪れており、最後に訪れたのは2006年の7月、多分110回目くらいであったのではないだろうか。

 

70年代から90年代後半まで四半世紀にわたって専門視察や研修、国際会議などで多くの専門家の方々を主として欧州、北米、豪亜などへ案内してきた。福祉や医療、教育、都市計画などが主たる分野で、企画や営業、手配だけでなく、視察先の探索、訪問交渉、案内、通訳(英語)などなどほとんどをやってきた。日本中のだれよりも多く世界中の障害者施設や地域ケア、医療施設や学校、世界的に著名な大学などを訪れているかもしれない。68年には国際障害者スポーツ大会(のちのパラリンピック)への出場選手を背負って羽田空港でタラップを上って機内へ案内したのが障害のある方の旅行のお世話では初めての経験であった。80年代後半からはそれまでの福祉や医療などの専門分野の方々のお世話だけでなく、障がいのある方々自身の旅行も積極的に手掛けるようになった。計画から実際の旅行までには1年以上の準備期間が必要なこともあったがそれだけに旅行先でお客様の満面の笑顔を見るとそれまでの苦労が報われたと、喜びもひとしおであった。93年の5月、スイスアルプス、ティトゥリスの3020mの山頂で万年雪の上に20数人の車いすの方々を含む120名で大歓声が上がった時の感動は今も忘れられない。

 

2006年にバリアフリー新法が施行され、交通機関や公共の建物、道路などのバリアフリー化が進み、ユニバーサルデザインの感覚がさらに取り込まれるようになってきたことは喜ばしいことである。特に、大都市部ではそれが顕著にみられる。しかしながら、人口の希薄な地域や地方都市に於いてはまだまだ不十分であり、加えてバスなどの運行回数なども少なく、車社会が進むにつれて買い物難民といわれる多くのおとしよりなど、交通手段の恩恵からほど遠い人口が増えている。また、旅行や外出をしたいと思いながらも要介護状態であるとか、支援者が限られているために容易にはそれがかなえられない人が益々増えてきているという超高齢社会の否めない現実を聞かされている。トラベルヘルパーや旅サポーター、あるいはトラベルボランティアなど旅行や外出の支援をする仕組みが少しずつ増えてきていることは喜ばしい傾向である。旅行情報は、従来の紙情報からインターネットなどで瞬時にして地球の裏側までの旅行情報を知ることもできるような時代になってきているがその情報の収集の仕方にも得手不得手があるだろう。

ハード面の整備が進められて旅行環境が良くなっていく一方で、人的サービスや情報発信と収集、旅行業や観光業界だけでなく誰もがこのようなことに理解を示し、協力していく、いわばソフト面の充実を促進していくことがユニバーサルツーリズムを普及させていく上で大切な要素ではあるまいか。

(2014/04/08)

小野(おの) (まもる) (株式会社 SPI あ・える倶楽部 CFO補佐)